「今 体 書」を思う 戸 張 丘 邨
《良い書・上手い書》・《芸術の書・実用の書》・《書の品格》など“書”にもいろいろな取り上げ方がある。考え方・捉え方としては、どれもみな正しいのであろうが、何を以って、また、どんな基準を以ってこのように区分けするのかを考えると、結構厄介なことである。《書の品格》などと言われてもすぐには答えられない。さしずめ「線質の良さと種類・線の動き・形が混然一体として、しかも自然に感じられる作品である。」程度のことであろうか。が、今体書(漢字かな交じり書)が定着してきた昨今、書をどう捉えるべきか迷うことが多い。
文部科学省が主に可読性(観る側が主体)の普及に力を入れてきた結果、殆どの書道展で今体書作品が見られるようになった。表現様式も漢字・仮名に比較すると多様化されている。それに伴い表具にも工夫がでてきた。その点では、創作する側・観る側双方からの楽しみ方が増えたといえよう。音楽に例えれば、さしずめ「Jポップ」的感覚で、裾野が広がったように思われている。が、果たしてそうであろうか。
時間的芸術という表現を使えば、書と音楽は同じと言えるが、文化もしくは生活に係わる点から見てみると、その意義は違うのではあるまいか。可読性を以って身近になった今体書の普及に至って、いわゆる従来からの「書の在り方・扱い方」を多少なりともなおざりにする傾向になってきたとは考えられないだろうか。作品を制作するのが人間である以上、社会的・経済的その他の影響を避けることは出来ない。個人主義だの自由だのと言いつつ、独自性の表出を求め、他作との違いのみが主体になり、表面上の面白さのみを追求している様に感じられてならない。
要は、このままだと今体書が単なる流行的な存在でしかなくなってしまうので、何とか不易的存在に高めていって欲しいと願うものである。いわゆる書法なり定義なりが確立されることが望ましいと思っている。
注: 今体書(きんたいしょ)= 近・現代文の書(漢字かな交じり書)
藝術新聞社「墨」242号 (Sept/Oct, 2016) より