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     視覚言語としての文字                田 邊 古 邨 

      ー 書は視覚言語の造型芸術である ー

 

 

  戦後の国語教育者は、言語を「話しことば」と「書きことば」とに分けることは知っているが、話しことばが聴覚言語 であり、書きことばが視覚言語であるということに気がつかないらしい。盲人の触覚言語、聾人の所作言語はさておき、書きことばは文字という標識による視覚言語であるのに、ただ聴覚言語の表記としか理解していないのはどうしたことか。

 

  話しことばは聴覚言語であるが、その中には多数の視覚言語が含まれ、書きことばは視覚言語であるが、その中には多数の聴覚言語が含まれている。すなわち、話すように書くと同時に書くように話すことが文明国の言語である。話すように書くことのみ要求し、書くように話すことを無視するのは、文字を使う文明国の言語ではない。

 

  幼児は話すだけだから、純粋に聴覚言語だけであるが、文字によって言語を記憶するようになった小学生は、漸次視覚言語を豊かにし、それが聴覚言語に吸収されてゆく。同様に聴覚言語の音的要素が聴覚言語たる文章の中に吸収されて、両者が深く関係してゆく。しかし話しことばは聴覚言語が主管し、書きことばは視覚が主管する。両者をいずれも聴覚言語と思いこみ、書きことばは話しことばにたいして隷属関係にあると思いこみ、新聞社も小中学校の先生も全く無抵抗であるのは、どうしたことであるか。

 

  戦後の子供はよくしゃべる。理屈を言う。しかし文字を知らぬ。発音が同じなら全然意味のちがう漢字でも平気で使う。そのために文章が書けなくなった。文章が書けないようでは広い地域に訴える力をもたぬ。

 

  文字を楽に書くことは視覚言語の基本である。幼児から習字教育の必要な理由がそこにある。しかもわれわれの視覚言語の媒体たる漢字かなは長い伝統をもった美しい造型である。この造型の中に筆者の性情、襟度、風格を見ることは、すばらしいことである。更に又その造型を研究発展させて、より美しい造型を創造することは愉快なことではないか。書は視覚言語の造型芸術である。

  (昭和35年2月29日燈下)

 

    注: この随筆は、田邊古邨先生が東京学芸大学教授であった時期に顧問をされていた「書道活法会」が、昭和35 (1960) 年

       5月1日付けで発行された ”書道誌「活法」” の創刊号の巻頭に掲載されていたものです。(聲画洞主人) 

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